『詩集 分身』塔和子著ブックカバーチャレンジ6日目

【ブックカバーチャレンジ】NO.6 『詩集 分身』 塔 和子著、1969年4月刊行

1929年、愛媛県で生まれ1941年、11歳の時にハンセン病とわかり隔離、大島青松園に入所しました。
1957年ごろから詩作を始め、自己の存在を根源的に見つめながら、一貫して人間の尊厳を問い、一生懸命に生きようとする魂の叫びとして、1999年に高見順賞を受賞されています。塔和子のドキュメンタリーが2003年には『風の舞』と言う映画になっています。
2013年8月28日、83歳で亡くなりました。

塔和子は、この著書の後記に「私にとって、この現実はすべて詩を産むための母体でした。苦しいときは苦しみを養分にして悲しいときは悲しみを養分にして詩を身ごもり、まるで月満ちて産まれ出る子どものように、ひとつずつ作品が生まれました。その意味で詩は分身です。」と書いています。
塔のハンセン病の症状は、戦後、薬により治りましたが、それまでにもった障害は元には戻らず、療養所での暮らしを継続する中で、詩に自らのいのち、存在の意味を綴っていきました。

2013年8月に83歳で逝去されますが、2014年
本名で故郷の墓地に分骨されました。
詩人、塔和子としていのちを削って詩作し、生涯を生き切られました。

1960年代、神谷美恵子が長島愛生園に精神科医として通っている間、瀬戸三園(大島青松園、邑久光明園、長島愛生園)の精神科医療にも関わっていました。その時に神谷は塔和子とも出会っていたのでした。精神的にいろいろな悩みを抱えていた塔が精神科に診察を受けていた時期もありました。これは高橋幸彦医師からの聞き取りで明らかになった事でした。

神谷は、数々のハンセン病の療養型で生まれた文芸作品を読み、『生きがいについて』を始めとする著作にもたくさん引用をしています。
「すぐれた文芸作品の多くは作家の心身の苦しみの代価として生まれるという。らい療養所で昔から文芸がさかんなこと。かなりな名手がいることは当然と言えるのだろう」と神谷は書いています。
塔和子も病の苦しみ、痛みと共にありながら、
ふるさとを離れ、本名を名乗らず、塔和子として生ききられたのでした。
壮絶な極限状況から同じように短歌を創作した明石海人(1900〜1939)も、自らを深海の魚族に例え、「深海の魚族のように、自らが燃えなければ光はない」と詠んでいます。
 ハンセン病の療養所では、多くの文芸作品が生み出された。(高齢者になられた現在も創作されている方々があります)過酷な運命を受け入れて、壮絶な病状、境遇を歌や詩に詠み、荘厳な人生へと昇華する生き方からも私達は学びと励ましをいただく事が出来ます。

塔和子は亡くなった後、本名の井土ヤツ子として、ふるさとの墓に分骨されました。

この『分身』は、塔和子から直接貰われた高橋幸彦医師(神谷が通っていた時期、精神科医として通っていた医師で、現在、81歳)から頂いた一冊です。

        孤独なる    
              塔 和子
今日は出会わなかったか
そんなことはない
書物の中の人と出会い
物語りの中の中の人と出会った

今日はなにもなかったか
そんなことはない
顔を洗ってお化粧をした
それから鏡の中ですこし微笑み
何ももたない自分を
あわれんでやった
閉じこもった今日でさえも
やっぱりなにかと出会い
なにかを考える
ぼんやりしているときにも
ぼんやりとなにかを思っているように

生きることはやっかいなことだ
少しの休息もなく
心が体をひきずっている
でも
そこは
出会うよろこびによってささえられている
小さな私の城だ

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