「母よ嘆くなかれ」ブックカバーチャレンジ4日目

【ブックカバーチャレンジ】NO.4
パール・バック『母よ嘆くなかれ』
松岡久子訳、1950年、法政大学出版局

神谷美恵子の『生きがいについて』には、第5章「生きがいをうばいさるもの」を始めとして、パール・バックの『母よ嘆くなかれ』の文章が多くひかれています。

パール・バックは、1892年アメリカで生まれ、宣教師の父の都合で生後3ヶ月で中国に移住。1911年にアメリカの女子大を卒業して、宣教師になり、中国で教鞭をとり、1920年娘キャロルを出産しました。その娘さんには知的障害があり、パール・バックは子供の障害が最初は受け入れられずにいました。『母よ嘆くなかれ』の原題は、『The Child who Never Grew』決して大人にならない子供、少し切なくなるタイトルです。

パール・バックは当時、中国に住んでいて、満3歳になっても言葉が出ない娘に不安を覚え、アメリカ各地の名医を訪ね歩きます。アメリカでは、道を歩いている時に差別的な言葉を投げかけられ深く傷ついた出来事も記しています。
パール・バックは、ある時、子供の知能が成長出来ない事を知り、身も心も疲れ果ててしまいました。そこで、パール・バックは子供の為にどうしたら良いかを必死に考えます。

子供自身が社会性のある生き方をすること、それによりある程度知能を伸ばすことができる機会を持つこと、それに属する集団で生活することが他の同じ悩みを持つ人たちの救済である事を発見し、パール・バックは、辛くとも苦しくても、自分の娘の真実のありのままを自分の手で必死に書こうと決意した記録が『The Child who Never Grew』でした。

余談ですが、この著書の中に、パール・バックが娘を連れて日本に滞在したと書かれている箇所があります。南京が革命勢力に占領され白色人種が中国を離れなければならない事態になり、パール・バックは、長崎にしばらく滞在しています。おそらく、1927年頃の出来事だと推察できます。その時、日本の優しい民情に触れ、日本人の清潔な庶民の生活に感動したと描写している箇所が印象的でもあります。

パール・バックが子供をもった時の文章を神谷は『生きがいについて』第5章にひいています。

「私はその時の感情を筆にすることはできません・・。ただその時、わたしの体の中で、絶望的に血が流れ出すような感じがしたと申し上げるほかはありせん。取り除くことの出来ない悲しみとともに生活するには一体どうしたら良いかを悟る過程の第一段階は、みじめな、しかも支離滅裂なものにすぎません。」

このような避ける事の出来ない悲しみから立ち上がっていき、新しい生存目標を獲得していくパール・バックの姿が『生きがいについて』には記されています。

「わたしのもって生まれた健康も、また私の魂の転換には多少の関係がありました。私は太陽が昇り、そして沈んで行くのも、四季がめぐってきて、また過ぎて行くのも、家の庭に花が咲き、通りを人が過ぎて行くのも、また町から笑い声が聞こえてくるのも感じるようになりました。とにかく悲しみとの融和の道程が始まったのでした」
このようなパール・バックの想いは、避ける事のできない悲しみを前にした人々の叫び声と同じであると神谷は言っています。絶望の断崖に佇んでいたパール・バックが少しずつ、自然の姿に目を向けられるようになっていったのでした。
神谷がここで注目したのはパール・バックの「中心をほんの少しでも、自分自身から外せる事ができるようになった時」でした。
 自分の悲しみ、または、悲しむ自分に注意を集中している間は、悲しみからは抜け出られないのです。

 パール・バックも何年もかけて、自分を手放し、自己中心的な意識から開放され、自分の存在意味を他のものとの関係性の中で見出していく事が出来るようになったのでした。

神谷は、『生きがいについて』の「新しい生きがいの発見」「生存目標の変化の様式」の中でもパール・バックの言葉を引用しています。

実は、神谷美恵子は、1963年、パール・バックの娘さんのいる施設を訪問しています。長島愛生園に非常勤で通っている間の1963年7月から2ヶ月間、プリンストン大学に訪問した時の事です。フィラデルフィア郊外にあるエルウィン・スクールとニュージャージー州のヴィインランドの訓練学校。

〔プリンストン大学では長く女人禁制でありましたが、この時期から、大学院のみ女性の入学を認めることになり、津田塾出身の鶴見和子(1918〜2006)が社会学研究科に入っていました。鶴見和子も1953年に『パール・バック』(岩波新書)を刊行しています。
弟の鶴見俊輔(1922〜2015)は、ハンセン病にも関わりがあり、1954年から長島愛生園の『評論』の選者も務めています。ちなみに鶴見兄弟と神谷は幼い時期からの知り合いでした。2004年に刊行された『神谷美恵子の世界』に鶴見俊輔は寄稿しており、日本の哲学史分野で神谷美恵子が扱われないのは残念であると書いています。〕

神谷がパール・バックの娘に出会った時の事を「娘を精薄児の為の施設にあずけ、定期的にそこを訪ねるパール・バックのことを筆者は3年前渡米の際、その施設で聴いた。40代になるその娘さんの姿も見た。
しかも、パール・バックは、精薄研究のため多くの寄付をなし、自宅にはさまざまな国籍の孤児を預かって世話をしている」と書いています。

『生きがいについて』にはパール・バックの母としての思いの変遷をパール・バックの自らが表現した言葉により、内在する心のあり様の変化が示されています。神谷がパール・バックのそのままの文章を長く引用して用いている箇所も多くあります。

「パール・バックはやっと悲しみの泥沼から這い出る。新しい目標は次第に拡張され、自分の子供の不幸を無意味に終わらせまいと言う心は広がって行く。その過程を再び彼女に語らせよう」と神谷も書いているように、この松岡久子翻訳のパール・バックの文章をそのままひいています。

パール・バックは、1938年(昭和13年)にはノーベル文学賞を受賞し、1973年(昭和48年)80歳で亡くなっていますが、私は神谷を通じてパール・バックの著書『The Child who Never Grew』を知り、その思想や実践を学ぶ事の出来ました。

「私が歩まなくてはならなかったこの最も悲しみに満ちた行路をすすむ間に、私は人の心はすべて尊敬に値することを知ったのでした。

すべての人は人間として平等であり、そして万人はみな人間として同じ権利を持っていることをはっきりと教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でありました。

いかなる人でも、人間である限り他の人びとより劣等であると考えてはならないこと、そしてすべての人はこの世の中で、その人の住むべき所と安全を保護されなくてはならないと私は思うようになったのであります。

もし、わたしがこれを理解する機会に恵まれなかったとすれば、私はきっと自分より能力のない人に我慢できない、あの傲慢な態度を持ち続けていたに違いありません。娘は私に、人間とは何であるかと言うことを教えてくれたのでありました」(『母よ嘆くなかれ』P.116)

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