ヴァジニア・ウルフ著作集8
『ある作家の日記』神谷美恵子訳
ヴァジニア・ウルフ(1882〜1941)イギリスの小説家。ヴァジニア・ウルフは、1915年に処女作『船出』を発表します。
ヴァジニアの・ウルフの作品は革新的なもので、「意識の流れ」手法を用いています。これは、従来の小説の筋や時間の枠などに従事しないで、絶えず移ろいゆく人の意識を表現しているものです。その代表作が『ダロウェイ夫人』『灯台へ』などです。
ヴァジニア・ウルフは、13歳の時に母が急死した時期から神経衰弱になります。22歳で父の死によりより不安定になります。生涯、精神的不安定な状況におかれながら、ヴァジニア・ウルフは次々と代表作を書いていきます。30歳でレナドと結婚し、出版社も経営していた時期がありましたが、1941年、自らの命を絶ってしまいます。ヴァジニアウルフ59歳でした。
ヴァジニア・ウルフが書いていた日記26冊をすべて読み通した夫、レナド・ウルフが、その中から彼女自身の文筆活動に関連している箇所のほとんどすべてを取り出した箇所全てを神谷美恵子が翻訳し、刊行したものが『ある作家の日記』です。
1915年から1941年3月28日、ウルフが59歳で庭先を流れるウーズ川に身を投げて自殺した日の4日前まで書いた日記から抜粋されたものであります。
神谷美恵子は精神科医としてヴァジニア・ウルフの病に関心をもち、1960年代、当時、長島愛生園に通いながら、京大精神科教室の村上仁の元へと通っていました。神谷は、ヴァジニア・ウルフの病名に悩んでいた時期のことでした。当時、村上の教室で神谷を報告を聴いていたのが木村敏先生でした。現在、89歳です。
〔話しは少し横道にそれますが、偶然、木村先生の著書を読んでいましたら、村上仁の指導を受けていたことがわかりました。そこで、調べてみたら、『異常心理学講座』村上仁編に神谷も木村先生も寄稿されていました。それで、木村先生の著作を出版した出版社に手紙を出し、木村先生に神谷について尋ねたい事を書いて、木村先生にお渡しくださるよう頼みました。今から6年も前の事ですが、私の手紙を出版社から受け取り読まれた木村先生がわざわざ電話をくださり非常にビックリしました。
「神谷先生のことをどこにも書いてないのに、よくわかりましたね」と言われ、「京大図書室でもよく会いました」と。あまりにも懐かしく当時を思い出したと、「とりあえずお出会いしてお話しできます」と言ってくださり、当時、木村先生84歳の御高齢でありましたが、京都市中京区三条通りにある予備校に研究室があり、そちらに伺ってお話しをお聞きしました。まさか、直接、お会いしてお話しを伺う事が出来るなど想像もしていなかったので、お会いする時は、本当に緊張をしました。
木村先生は、京都市右京区嵐山に御自宅があり、奥様が同志社女子大学卒業との事なども話されました。ミネルヴァ書房から刊行されていた木村敏先生の自伝的著書『精神医学から臨床哲学へ』を読んでいたので、そのあたりの話しは存じてはいましたが、長女さまを40代の若さで亡くされた話しには、著作に書かれていない思いを語られ、御高齢を生きる時に子どもを先に失う喪失感は自分が経験して初めて知ったと言われました。
神谷の京大の精神医学教室でのヴァジニア・ウルフの病跡研究の発表を末席で聴いていましたと。木村敏先生は当時、ミュンヘン大学から帰国後、滋賀県の病院で精神科医として働いていた30代になったばかりで、ウルフの話しはまだ難しくわかりませんでしたと。
神谷がヴァジニア・ウルフの病名を非定型精神病であると村上の指導により明らかになったとも言われていました。
木村先生は、「神谷先生ももう少し長く生きておられたら、もっと良いお仕事をしてもらえたのに」とも言われてました。木村敏先生も精神医学から西田幾多郎哲学を取り入れた臨床哲学に移行した話しもされ、「生きておられたら神谷先生から哲学的な指導も受けられたらかもしれないですね」とも。
そのようなことがあり、木村敏先生から著書をいただいたりする機会が与えられました。
これも神谷研究のおかげで導かれた出会いでした。〕
話しを戻しましょう。
神谷は、1963年、スイスの雑誌にハンセン病に関する精神医学論文を発表しました。その事がきっかけとなり、1965年、『ヴァジニア・ウルフの病誌素描』が同じ、スイスの雑誌に掲載されました。
すると、精神医学を超え様々な分野の方々に関心をもたれ、欧州などからも刊行依頼がくるようになりました。
そして、神谷は、1966年4月7日日本精神神経学会では「創造と表現病理」においてウルフの病跡を発表しました。
1966年11月には、ロンドンを訪問し、ヴァジニア・ウルフの自宅にて、夫、レナド・ウルフと出会い、ヴァジニの・ウルフについて、詳しくいろいろな話しを聴いています。神谷の日記にはレナドと5時間も話したと書いています。
その後、神谷は、レナド・ウルフとは文通をし、その数は20通を超えました。レナド亡き後は、ヴァジニア・ウルフの甥、ベルと文通をしました。ベルの手紙は、神谷家が保管されており、博論の為に資料提供を下さいました。博論にはベルの手紙は公開しています。
1972年ベルが『ウルフ伝』第二巻を刊行しました。その脚注には、「日本の精神科医神谷美恵子がヴァジニア・ウルフの病跡を準備しているはずだから、その仕事が公表されたら、精神医学がウルフの病気の助けになりえたかどうか判明するだろう」とベルは書いています。当時、病床にあった神谷は、ベルの脚注を読み、自らの病気ゆえに時間のなさに悩んでいました。
神谷は、長島愛生園の激務のために1971年12月、虚血性心疾患になります。1972年春には長島愛生園を退職し、入退院を繰り返す日々。1979年急逝する時までの7年間で14回の入退院を繰り返しています。
そのような時期に、『ある作家の日記』の翻訳もしていたのでした。
1974年秋に心臓発作で入院中にも、ウルフの日記の翻訳の仕事を病室に持ち込み行い、ウルフのより深い内面世界に入り込まれていたと、当時の話しを次男奥様は語られていました。
神谷の「ある作家の日記』の翻訳は、ようやく完成し、刊行されました。
ウルフを診察した精神科医5人のうち誰1人なし得なかった支持的精神身体療法をレナドが編み出したと書いています。それは、ウルフの存在そのものを支えたレナドの姿でした。
ヴァジニア・ウルフにむけられた暖かい眼差しをもち翻訳に取り組んでいた神谷の姿を見ながら読むことが出来る一冊です。神谷の暖かい眼差しは、ヴァジニアに、長島愛生園の入所者にも死ぬまで向けられていました。
(写真の本は、神谷家から頂きました尊い本です。私の宝物です。)
神谷は20年間、ウルフの病跡研究に費やしましたが、1979年10月22日、ベルとの約束は果たせないまま、ウルフの病跡研究を完成することなく急逝したのでした。神谷美恵子は65歳でした。